
昔、日本中に武士たちが戦っていたころのお話です。
七尾城主の畠山氏は、超後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦っていました。
謙信は、石動山までやってきて天平寺(てんぴょうじ)をかりやどとし、七尾城を攻める準備をしていました。
その頃、 七尾の塗師町(ぬしまち)の梅丸(うめまる)という子が、天平寺に稚子(ちご)として働いていました。
ある日のこと、梅丸は、お寺の床下に入っていると、謙信の家来たちが、上の方で、七を攻める想談をしていました。
梅丸は、その話を一部始終(いちぶしじゅう)聞いていました。梅丸はもちろん七尾城の味方でした。そこで、これは一刻(いっこく)もはやくお城のお殿様に知らせなければならないと思いました。
そこで、夜になるのを待って梅丸は一人で、こっそりとお寺を抜け出しました。そして、お城に着くまでは、たとえどんなことがあっても、 この話を他人にはもらさないそと固<決心し、石動山から七尾まで続いている山道を、一目散(いちもくさん)に走りました。
すると、道端にあかりが見えて、そこに五、六人の大男たちが刀や搶を待って見張りをしていました。
大男たちはすぐに梅丸を見つけて、「そこを通るあやしい者、見ればまだまだ子供ではないか。こんな夜道をどこへ行 くのか、正直に答えろ。」と言って、梅丸をとり囲んでしまいました。
それはみんな謙信の家来てした。
梅丸は、何を問われても、一言もしゃペりません。 すると武士たちは大へん怒って「何も答えないとは、いよいよあやしいやつだ。こうして くれよう。」と言って、 梅丸を押し倒して、そこにあった大石の上に乗せ、梅丸の手をつかんで、まるで牛を引き裂くように、梅丸をひきさいてしまいまいました
梅丸のからだから血がいっはい飛び散って、大石をまっ赤に染めました。
かわいそうに、梅丸は殺されてしまったのです。
その大石は「牛さきの石」と言われ、梅丸の悲しい最後は多くの人たちに語り伝えられました。
その大石は、今は残っておりません。